自分の感受性くらい
更新日:2020年4月26日
『自分の感受性くらい』
花神社
1977.3(図書館所蔵は1990)
本に巻かれた帯の背部分に無数の穴。ナメクジが這ったように空いており、著者の名前がほぼ判読できない。
紙魚って本当にいるんだなあ。久々に本棚から取り出したこの一冊を見て、時が流れたのを感じた。
この本との出会いは学生時代聴いていたラジオだった。
「明日は月曜日か」と憂鬱になりながら、日曜の夜、落合恵子の時間を楽しみにしていた。ある日の番組内で朗読された一編の詩が、表題作「自分の感受性くらい」。
やろうと思ったことがうまく行かない。自縄自縛。若い頃なら誰にでもあることと言ってしまえばそうかも知れない。色んな場面でモヤモヤしていた自分。この朗読を聴いて、ガツンと一発殴られたような気がした。最後の「ばかものよ」の一言がズシンと来た。
周囲のせいではない。己の未熟さはどうなのか。そう問いかけられた気がした。
何かの折に取り出しては眺めていたこの詩集ではあったが、このところずっと本棚で埃をかぶっていた。本当に久しぶりにページを繰って「図書館員の本箱」にこれを書こうと思ったのもあるきっかけがあったからだ。
少し前、「就職したばかりの時、Sさんからこの詩集を勧められたんですよね!」と後輩が若い職員の前で明るく暴露し、冷や汗をかく事があった。
人に詩集をすすめるなんてよくやったよ、就職してからもまだまだ青かったなあと思っての冷や汗。そしてこの度ようやく再読。
いや。今だって本当にすすめたい人にはすすめる。そう思った。
表題作の他に19の詩が収められているが、言葉と言葉の間に見えるものが年を重ねて変わり、それぞれの詩の印象も変わった。でも自分の中の青い部分はまだ残っている気がする。「ばかものよ」の一言、今またズシンと来ました。
「詩集と刺繍」という作品。実際、利用者の方から本の所在を尋ねられた際、すぐに棚に向かわず「文学のシシュウでしょうか?手芸のシシュウでしょうか?」と確認したことがあった。詩集がこんな場面で役に立つこともあるのです。
あの日ラジオから流れてきた、穏やかで芯があり時には厳しさも感じる彼女の語りを、今も思い出すことができる。(S)